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全国未亡人連合-第三章・良い未亡人とは-

さてこの章では、より具体的に未亡人の良し悪しについて書いていきたい。



その前に学会が認知する、未亡人嗜好の差から生まれた各々の派閥について書き改めておきたい。

彼らの嗜好により、「良い未亡人」の定義は変わってくるからだ。

すべての派閥にとって最良の未亡人を発見することが当連合の目的であるわけだから、必然的に全体の嗜好を知る必要がある。

子持ち未亡人優良説推奨派……基本的に未亡人は清らかさと艶かしさの間を揺れ動き、そこのぬるりとした魅力を味わうものである。しかし彼らはその意見にあえて反旗を翻し、「未亡人と子と自身の三分立によって生じるベクトル係数の拙攻にこそ魅力があるのだ」と声高らかに訴える。もちろん子どもに「おじさ……、お、お父さん」と呼ばせる快楽を否定はしない。しかし子どものいる未亡人の持つ「生活の保護」を求める姿勢は、未亡人が持つべき恋愛に対する絶対値的衝動(前の旦那への操と、新しい相手との間に生まれる、解決することのない永遠的な命題が生み出すダイナミックなエネルギーこそ、未亡人の最大の魅力なのだ)が損なわれる可能性が否めない。もちろん物事は一長一短である、必ずしも彼らの意見が間違えているとはいえない、未亡人研究は奥が深いのである。

白こんにゃく派……へたれ集団である。未亡人の本当の風流さを解せない、下等な嗜好家集団である。彼らは性欲・色欲に任せ、未亡人との気の長い精神的交流の価値を見出せず、ただそこらへんにいるアーパー姉ちゃんと同じ感覚で未亡人と接触し、すぐ深い関係になろうと試みる。この派閥が案外多いことに、未亡人学会が日の目を見ない一つの理由のように思える。主に高校生から大学生あたりに多い。高校生は近所の暇な未亡人にかどわかされるパターンが多く(また、捨てられる時しつこいのも彼らである)、大学生は伝統的に家庭教師や剪定で家を訪問した際、関係をもつパターンが大部分である。

有閑倶楽部……元々財力のある男はこの派閥になる場合が多い。未亡人を含め、一種のサロンを形成し、青山かどこかのオープンカフェあたりでガーデニングや旨いイタリア料理屋の話をしたりする。未亡人はゴールデンレトリバーを所有している場合が多く、オープンカフェの椅子の足に紐を巻きつけ、話に更け込む。男はマセラティを店に横付けし、いつでも発進できるようにしている。双方裕福で、経験も豊かなためか余裕を持ってやり取り(攻防)を楽しむ。趣味の良い未亡人嗜好といえるが、著者は特に理由ないのに忌み嫌ってたりする。

めぞん一刻派……まさに未亡人好きのバイブルたる良書、「
めぞん一刻」の影響で未亡人好きになった一派。彼らは故意に浪人し、安下宿を探し、美人で優しい管理人とあれやこれや…という妄想をもって東京にでてくるが、現実にあのような理想像を結集させたような未亡人はいないし、いてもとっくに虫がついているのがオチである。一刻派はある意味けなげで哀れなのだが、彼らの願いも良く分かる。音無響子という名は未亡人界に輝くある種の象徴であり、神なのである。

全未連……当学会である。基本的にすべてを受け入れ、あらゆる意味で完全な未亡人を探求しつづける派閥である(もちろんそのような未亡人が存在するとは思っていないが。捜し求めることに価値がある)。まだ少人数の学会であるが、地道に作業を続けている次第である。



このように、一口に未亡人好きと言っても、その嗜好は実に多岐にわたる。

よって人により、良い未亡人像は違ってくる。

しかし基礎的な部分では、一致した意見をもってる部分も多い。

例えば未亡人とは、端的に言えば「旦那と死に別れた妻」のことである。

つまり「前に必ず旦那がいた」ということである、そのため旦那の性質で未亡人嗜好もかなり狭める事ができる。

例えば旦那がものすごく好色な人間で夜な夜な未亡人と、といった感を持った人であれば、多くの未亡人嗜好家たちが眉を曇らせる。

それは未亡人に比較されるべきは、こちら側の性格であるべきという基本的な概念を、ややもすると壊しかねないからである。

あくまでも「その人個人の存在感」が必要とされるべきなのである。



また、前章でも触れたが、
熟成具合というのも、重要な判断材料である。

ただ、一般的に5年をメドに考えられる熟成具合だが、通に成ればなるほど時間の経過をより楽しむようになる。

故に熟成期間も格段に上昇する。

未亡人には常に新しい交際相手の影なり予感なりが付きまとう、それは早く過去の傷を癒してほしいことや、配偶者がいる喜びを知っていること、新しい一歩を踏み出したいなどの欲求があるからである。

そのような危うい状態の未亡人は、大きな感情の揺れをもたらす相手が見つかれば、一気にそちらに傾いてしまうかもしれない。

そのような危険をあえて承知しながら、付かず離れずの微妙な状態を続けることは、上級者ならではの高等かつ風雅な楽しみ方である(その状態を学会では「
勝負パンツは今日も無駄」とよぶらしい)。

ただこれはどこで仕掛けるか、見極めが大変難しく、素人にはお勧めできない、未亡人をよく知りぬいた人間のみが楽しめるやりかたなのである。

一般的にはやはり5年前後を良い未亡人と考えて間違いないだろう。



良い未亡人のひとつのモデルケースを挙げてみようと思う。

「私が風呂に入っていると戸が開き、和服をたぐり襷がけした女性が入ってきた

彼女と私は互いに一人、配偶者を持った事がある。

そしてお互い、その最愛の相手を失った経験を持っている。

まだ、籍は入れていない、まだ、心にしこりが残っているのだ、お互いに。

『お背中お流ししますわ』彼女は言った、もうずいぶん長い付き合いだが、この口調はいつまでも変わらない。

『ああ、頼む』私はタオルを腰に巻き、タイルの上に座った。

彼女が背中を洗う、すっすっという音を聞いていると、自然心が和んだ、やはり、そばに親しい女性がいるのは良いことだ。

すると彼女が、私の心を読むように背中に頬を寄せてきた、彼女の頬の熱が私の背中を小さく揺らした。

『濡れるよ』というと、くすりと笑い、彼女は言った、『あなたの背中、大きい……』

私たちは暫らく、そのような格好でじっとしていた、清らかな時間を少しでも共有できるように……」

これは一つの理想を表しているだろう。

もちろんこれが最良とはいえない、我々の探求は未来永劫続くのである。

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