時々不思議に思うのですが、朝のニュースなんかでやっている占いコーナーとかって、必ず「何かが起きる」結果ばかりですよね。
例えば「恋人とうまくいく」とか「信頼している人に裏切られる」とか。
これって、逆にいえば「恋人とうまくいくような状況にある人(恋人がいて、かつその日に会うor電話などで接触する人)」や「信頼している人に裏切られるための行動ややり取りを行っている人」に限定されるわけで、ある意味的を絞っててえらいなあ、なんて思ったり。
占う側とすれば、より現実的に占い結果を当てようと思ったら、「昨日と同じような日になるでしょう」と言っちゃった方がいいはずですし、予知の精度としては、多分こっちのほうが上なのでは、と。
でもまあ、そんな占い楽しくもなんともないですし、誰も真剣に見ないでしょうね。
その意味で、「占いを真剣に見る人」って、もしかすると「日常とは違う一日を期待している人」と言えるかもしれませんね。
だとすると不幸や望まない未来の「予知」もまた一つの楽しみなのかもしれません。
「まあ、大変! 私、恋人いないけど、『恋人に裏切られるかも』ですって! これは急いでラッキーアイテムのピンクのハンカチ買いに行かなきゃ!」とか。
それはそれで毎日新鮮な気分で生きられて幸せなのかも。
ちなみに僕は占いとかそういう類のものは、存在することに苦もなければ否定する気もありませんが、特に信じてもいませんし気にも留めません。
楽しめる人が楽しめばいいと思いますし、それはそれで真だと思うのですが、自分にはあまり関係のない世界かなあ、と。
まあ、多くの人にとってそうなんでしょうが……。
そういえば、最近時々なんでもない風景見た時に、ふと既視感(デジャヴ)を感じることが。
もちろんこれは、それなりに長いこと生きていると新しく見る風景でも、類型のイメージから「体験感」を得ている(人生に慣れている)というのがその原因なのでしょうが……。
いざデジャヴを感じると、その場その場でそれなりに考えちゃうんですね。
なんだこれ、オレの記憶のどこにある風景なんだ? ここは自分にとって重要なインスピレーションを与えてくれる何かなのか? みたいな。
こういうのって、真剣に考え込まない程度に「不思議さ」を楽しむと、それなりに時間をつぶせたりしていいですね。
自分の抱える日常性のネジをちょっとだけ緩めたい、って気持ちは、案外誰にでもあるのかもしれませんね、占いなんかとも同じで。
その「緩める媒介」が人それぞれというだけで。